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【世事関心】「清華大学の物語」 1

2016年11月25日

【世事関心】特別番組「清華大学の物語」

最も深い暗闇の中で、私達は星の光です。いつか夜明けの光が差し込んで来た時、光輝く物語をひとつ贈りたい。私達の物語を。

孟軍(もう ぐん)(清華大学電子工程学部元教師):「当時、新疆ウイグル自治区で8番目の成績で清華大学に合格しました。」

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部1996年博士課程):「中学校の入試を受けた後は、高校、大学、大学院まですべて試験免除で入学しました。」

彼らは誇り高き「70後」(1970年以降に生まれた人のこと)世代。本来ならば、間違いなく未来の中国のリーダーになるべき人達です。

兪平(ゆ へい) (清華大学熱工学学部1997年博士課程):「宋(そう)の張載(ちょうさい)が言ったように、天地のために心を立て、人々のために道を立て、亡くなった聖人のために絶学を継ぎ、万世(ばんせい)のために太平を開く、という気持ちでした。」

しかし、彼らの人生は最初から波瀾万丈なものになると予期されていたのかもしれません。

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部1995年卒業):「太陽の光を見ていると、心の奥底から何かが喉に突き上げてきて、涙が出そうになります。この感覚は子供の頃からよくありました。大人になってやっとこれが憂いの感覚だと分かりました。ですが、どうしてこのような感覚になるのかは分かりませんでした。」

兪平(ゆ へい) (清華大学熱工学学部1997年博士課程):「私はよく縁側に座って満天の星を見ながら、自分はどこから来たのかと考えていました。深い深い命の根源について追及したかったのです。」

彼らの間には、成功者であるということのほかに共通点はありませんでした。

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部1995年卒業):「王為宇は18歳で共産党員になった大学のエリート中のエリートです。私は彼のことを知っていましたが、付き合いはありませんでした。」

後に、2人の運命は変わることになります。

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部1996年博士課程):「昼寝する時には、早く眠りにつくために本を読むことにしていました。ある時、いつものように本をぱらぱらとめくっていたら、ショックを受けました。」

孟軍(もう ぐん) (清華大学電子工程学部元教師):「第一章を読んだ時、私は大きな衝撃を受けました。師父はいきなり高いレベルで説法していました。私の心は震え出し、真理に出会ったと感じました。」

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部1995年卒業):「あの時のようなことは今までにありませんでした。私の自己中心的な考えや傲慢さが、音を立てながら氷山が崩れてゆくように溶けていきました。」

誰も思いもしなかった人と人の繋がりが、この時密かに、そして慌ただしく始まりました。

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部1996年博士課程):「党籍と学位を取るか、法輪功を取るか、どちらかを選べと迫られました。」

劉文宇(りゅう ぶんう) (清華大学熱工学学部1999年博士課程):「あの日8時になった時、命を投げ出す気でいました。」

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部1995年卒業):「あの日、私は生きて帰れないかもしれないと思い、背広を着ました。たとえ殴り殺されたとしても、それほどみっともない格好にならずに済むと思ったのです。」

何年も後、彼らは互いを、共に命を賭けた友だと思うようになりました。

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部1996年博士課程):「自分が耐えられないかもしれないと思って、24時間は皆の安全を守ると言いました。気が狂っても、何があっても、何も言わないと心の中で誓いました。」

虞超(ぐ ちょう)さん(清華大学精密機器学部1995年卒業):「私と王為宇以外、皆捕まりました。私達は2人でこの状況に立向わなければならなかった。この時分かったのは、私達の性格や興味や家庭環境の違いは何でもなかった、重要なことではないということでした。そんなものは表面上のものに過ぎず、大事なのは、私達は共に法輪功学習者だということでした。中国共産党に罪のない人々を傷つけさせるわけにはいかない。」

最も深い暗闇の中で
私達は星の光です
いつか夜明けが来たら
1つ光輝く物語を贈りたい
私達の物語を

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部1996年博士課程):「清華大学は開放的な雰囲気の大学です。キャンパスに入ると真直ぐな道があって、周りの景色が視野いっぱいに飛び込んでくる。私の性格はこの学校に合っていました。真直ぐで、はっきりしていて、活力のある学校です。」

彼の名前は王為宇(おう いう)。山東省の泰山の麓、孔子の故郷で育ちました。1991年、18歳になった彼は優秀な成績により、国内トップ5大学に入試免除で推薦されました。彼が選んだのは清華大学でした。

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部1996年博士課程):「中学から高1までの間、私は数学や物理、化学の全国大会に参加し賞を取っていました。中3からはずっと市の統一試験で1番でした。」

彼と一緒に全国から集まった学生たちは、さまざまな方言を話していましたが、共通点は1つ。皆エリートであるということです。

兪平(ゆ へい) (清華大学熱工学学部1997年博士課程):「小さな頃から勉強が得意で、いつもクラスで1番でした。1990年に北京の清華大学熱工学部に入学しました。地元で清華大学に入ったのは私が初めてです。」

孟軍(もう ぐん) (清華大学電子工程学部元教師):「当時、清華大学が新疆ウイグル自治区で募集する学生数は少なく、19名しか取りません。私はこの地域で8番の成績で清華大学に合格しました。」

劉文宇(りゅう ぶんう) (清華大学熱工学学部1999年博士課程):「大学から優秀学生奨学金を貰いました。入学して2年足らずで、指導教授が私の能力を見込んで、早くも博士課程に入れてくれました。」

90年代に大学時代を過ごした人のほとんどが70年代生まれの人達です。「70後」と呼ばれる特殊な世代です。中国が貧しく狂っていた時代の末期に幼少時代を過ごし、成長と共に開放した社会を迎えました。そのため彼らは心に矛盾を内包しています。それでも、彼らは間違いなく中国の伝統観念を受け継いだ最後の世代です。黄土高原の誠実な家庭の子供、長江のほとりで一所懸命働く農民の子供、60年代に貧困地区を支えた大学生の子供です。

孟軍(もう ぐん) (清華大学電子工程学部元教師):「私の両親は50年代に砿業大学で採掘を学びました。50年代の終わりから60年代の始めにかけて、僻地の発展を支援するために新疆ウイグル自治区に来ました。私は両親にとても大事に育てられ、何不自由なく、心配することもなく育ちました。」

兪平(ゆ へい) (清華大学熱工学学部1997年博士課程):「当時私は学校の寮に入っていました。月末になると、生活費を貰うために実家に帰るのですが、母は私の生活費や学費を捻出するのにとても苦労していました。飼っている鶏とアヒルの卵を両親は食べずに売って、私のためにお金を貯めていました。」

劉文宇(りゅう ぶんう) (清華大学熱工学学部1999年博士課程):「今でも覚えています。小さな頃に住んでいた教育局の宿舎では、夕食後に住人が庭に集まり、おしゃべりをしたり、夕涼みをしたりしていました。でも、母は仕事から帰って夕食を作って私達に食べさせると、いつも家で針仕事をしながら、私達の宿題を見たり、勉強を教えてくれたりしました。」

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部1996年博士課程):「人間らしく生きるためには、人に対して思いやりを持たなければなりません。地に足をつけて、何事も誠心誠意で努力しなければいけない。道徳はどんな優れた能力よりも大事だと思っています。」

もちろん、「良い子」ばかりではありません。精密機器学部に1990年に入学した虞超は、自分のことを「ひねくれ者」だと強い北京なまりで話します。

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部1995年卒業):「姉が言うには、私は3歳までは可愛かったそうです。会う人に挨拶し、人懐こくて、いつも笑っていたと。それが3歳になると反抗的になり、人から指図されたことは一切やらなくなったそうです。人に言われたことについて、まず自分で考えて、納得できなければしない。反骨精神が強いのでよく殴られました。殴られて大きくなったようなものです。」

虞超の両親は中国人民大学の教職員だったので、小さな頃から中国人民大学のキャンパスで育ちました。大学のキャンパスの中で、さぞかし恵まれた成長期を過ごしたのではと思われがちですが、虞超の記憶の中では醜いことの方が多いです。

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部1995年卒業):「中国共産党が政治運動を発動する度に、人民大学はその渦に巻き込まれていました。5、6歳の頃、上の姉が私を連れて大学の食堂に饅頭(まんとう)を買いに行った時、大きなボイラー室の前を通りました。そこに立っているとても高い煙突を姉が指さして、『ここから飛び降りた人がいるよ』と言いました。『飛び降りたら痛いかな』と姉に聞いたことを、今でもはっきりと覚えています。」

幼年期に経験した影がずっと虞超につきまとっています。

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部1995年卒業):「当時、私がほかの子供と遊んでいると、周りの大人が『チョコレートを食べて育つ子』(裕福な家庭の子)と『トウモロコシの粉を食べて育つ子』(貧困な家庭の子)と、憎しみに満ちた声で話していました。当時、家はトウモロコシの粉の粥を食べていたので、私は『トウモロコシの粉を食べて育つ子』だと思っていましたが、何年か経って、あの時大人たちが言っていた『チョコレートを食べて育つ子』とは私のことだったと知りました。でも、それは全部彼らの想像です。私はチョコレートを食べて育ってなどいません。中学に上がってもずっとつぎはぎのぼろを着ていました。彼らは想像で私に嫉妬していました。」

幼い頃に受けた抑圧から、虞超は今も抜け出せていません。人が憎しみ傷つけ合う姿が脳裏に焼きついたまま、高校を卒業した時、この国のもう1つの異常な姿を目の当たりにしました。1989年6月4日の天安門事件の血の記憶が覚めやらぬ中、90年代に入ると、鄧小平が南巡講話を行いました。経済の改革開放が押し進められ、人々は暗い過去を忘れようと金儲けに邁進しました。90年代、中国の文化と思想は停滞し、人々は理想や信仰や社会良識を失ってゆきます。

しかし、そうでない人もいました。この女性は、父親の経験から「過去を忘れないこと」を学びました。

蕭晴(しょう せい) (清華大学精密機器学部1999年修士学位取得):「わが家は祖父の代、あるいはもっと前から、この国と運命を共にしてきたと言えます。私と主人は法輪功を学んでいたために迫害を受けました。ですが、思えば祖父も父も、三世代に渡ってわが家には平穏な時がありませんでした。祖父は『特権分子』『摘発を逃れた右派』と見なされ、一家は悲惨な生活を強いられました。清華大学の学生だった父と母は、60年代文革に遭いました。農村に送られて再教育され、そのまま卒業しました。その後、大学入試が再開された時、両親は院生として清華大学に戻りました。だから私は美しい清華大学のキャンパスで子供時代を過ごしました。」

両親とも清華大学の卒業生で、幼い頃にキャンパスで幸せな時間を過ごした蕭晴は、清華大学に深い思い入れがあり、自身も一所懸命勉強して清華大学に入学しました。しかしこの時、両親から忠告を受けました。

蕭晴(しょう せい) (清華大学精密機器学部1999年修士学位取得):「入学を前に、両親は私に政治と関わらないようにと言いつけました。なぜなら、私が入学したのは1991年で、1989年に起きた天安門事件から2年しか経っていなかったからです。当時、入学後に1年間の軍事訓練が課せられていました。政府は、まず学生を服従させてから知識を教えることにしたのです。1991年に入学した私達も軍事訓練を受けました。両親はとても心配し、「わが家は『赤い家庭』(党と親密な家庭)ではないので、静かに勉強しなさい」と言いました。私は両親の言いつけを守りました。在校中に担当した最も大きな職務は学生自治会文芸部の副部長でした。共産主義青年団委員や共産党委員や書記などに近づかず、遊び好きな学生でした。」

90年代、この物語の主人公達がみんな清華大学に集まりました。

虞超(ぐ ちょう)清華大学精密機器学部1990年入学
兪平(ゆ へい)清華大学熱工学学部1990年入学
孟軍(もう ぐん)清華大学電子工程学部1991年入学
王為宇(おう いう)清華大学精密機器学部1991年入学
蕭晴(しょう せい)清華大学精密機器学部1991年入学
劉文宇(りゅう ぶんう)清華大学熱工学大学院1997年入学

全員清華大学で暮らしていましたが、彼らは互いのことを知らず、関わることもありませんでした。

(スタッフ:「当時、虞超のことを知っているか?」)

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部96年博士課程):「知らなくはありません。彼は同じ寮の先輩で、私は5階で、彼は4階でした。虞超は法輪功の修煉を始める前から目立っていました。声が大きくて、歌が上手で、よく廊下でうろうろしながら、いろんな歌を歌っていました。「敖包相会(オボーの逢瀬)」という歌がとくに上手でした。学生寮は音が響きやすく、彼が廊下の端で歌っていると、長い廊下に響き渡って、思わず聞き入ってしまいます。この人はいったい誰だろうと思っていました。」

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部95年卒業):「王為宇は清華大学のエリートでした。18歳で共産党に入党し、大学で共産主義青年団の書記を務め、学生の指導もしていました。学校にとって重要なエリート中のエリートです。当時の私は仙人のように自由気ままに過ごしていました。王為宇のことを知ってはいましたが、何の関わりもありませんでした。彼に対する印象は、官僚の道を進む人という感じで、自分には理解しがたい遠い存在でした。互いの間には大きな溝があって、何を考えているのか、何をしているのか、知る由もありませんでした。」

このように、生まれ育った家庭環境も経歴も性格も違う若者たちが、清華大学のキャンパスの中で、それぞれの目標に向かって励んでいました。しかし、ある力によって、彼らは互いに結ばれ始めていました。

兪平(ゆ へい) (清華大学熱工学学部97年博士課程):「私は小さな頃から自然や宇宙の、科学が解明できないことに興味がありました。UFOや異空間や人生の最終目的地、命の存在意義などについて、ずっと答えを探していました。私が幼少期を過ごした農村は当時汚染もなく、夏になるとみんな屋外で涼んでいました。そんな時、夜空を覆う満天の星を見ながら、自分はどこから来たのだろうと考えに浸っていました。」

虞超(ぐ ちょう) (清華大学精密機器学部95年卒業):「3歳の頃、1974年か75年の時、人民大学の幼稚園に通っていました。そこでは全員昼寝をしなくてはなりませんでした。先生が私達を寝かしつけるためにこう言うのです。『毛主席の良い子であることを実際の行動で示しましょう』と。その行動とは昼寝することだそうです。この説明の後、皆が毛主席の良い子になるために寝ましたが、私はなかなか寝つけません。というのも、2つの疑問が頭の中をめぐっていたからです。1つは、『実際』とはどういう意味なのか、もう1つは、毛主席の良い子になることと昼寝にどんな関係があるのか、と。この2つの疑問のせいで、私は寝られず、仰向けになって、ガラスの窓から差し込んでいる太陽の光を見つめていました。すると突然、心の奥底から何かが喉に突き上げてきて、涙が出そうになりました。この感覚は子供の頃からよくありました。大人になってやっとこれは憂いと言う感覚だと分かりました。ですが、どうしてこのような感覚になるのかは分かりませんでした。これからもずっとこうなのかは分かりません。ただ私に分かったことは、親や普通の人達や先生が求めるものには価値がないということです。求めるものを手に入れても、皆が言うような喜びを感じられない。あるのは空虚さだけです。真実で確かなものは何なのかを知らず、幼い頃からずっと、心に重石を載せられているような感覚でした。」

虞超の上の階に住んでいた王為宇も悩んでいましたが、その悩みには矛盾が混ざっていました。

王為宇(おう いう) (清華大学精密機器学部96年博士課程):「私は矛盾の多い人間です。なぜなら私の心の中と、受けてきた教育とは相反しているからです。無神論者の両親のもとに生まれ、その教育を受け、共産党が正しくて素晴らしいものであると聞かされて育ちました。けれど、私の心は伝統的で、この世は私達が見ているような簡単なものではないと考えていました。中学1年生の時でした。1人で歩くのが好きだった私はその日、泰山の麓を歩いていました。歩きながら、この世は不思議だなと思ったら、すべてのものが生き生きとしてきて、泰山が私に話しかけてくるような感じがしたのです。その時、この一生でもし世界一の徳のある方に出会って教えを頂けるなら、どんなに厳しい試練をも受け入れようと思いました。子供だったので、何かが分かっていたわけではありませんが、歩きながらそう思っていました。」

人生の意義に関して、劉文宇も同じように悩み続けていました。1997年に大学を卒業した矢先に重い病気にかかり、この経験で彼は「無常」を感じました。

劉文宇(りゅう ぶんう) (清華大学熱工学学部99年博士課程):「その1か月で人生は無常であることを身をもって知りました。人の命は脆く、生と死を分けるのはほんの一線です。入院中、窓の外で自由に飛び回る小鳥達をうらやましく見つめながら、誰がこの小鳥達のように自由に生きられているだろうか、どうすればこの自由を手に入れられるのだろうか、どうすればこの境地に到達できるだろうか、とずっと考えて、答えを探していました。人は何のために生きているのか、何らかの方法で自分を超えられるのではないか、さらに高い境地を目指せるのではないかと思い、科学、宗教、神学などたくさんの本を読みました。でも結局、科学によって宗教を解明できるのか、神が本当に存在するのか、答えは見つかりませんでした。」

これらの優秀な理工学部の学生達は、何度も何度も空を眺め、宇宙を探り、銀河系、太陽系、それから埃よりも小さな孤独な青い星、私達の世界、私達の家である地球を見つめました。この時、人類がどれほど小さく取るに足らない存在であるかに気づき、自分がいる社会や環境、学校に奨学金の申請、教授や幹部とよい関係を築くことなどが、微々たるものになっていきました。遠い昔、真理を求めて人は空を仰いできました。天上と地上はつながっているのでしょうか。天上には私達を見守る目があるのでしょうか。この問題について説明できる知識を持つ人は、当時の中国にはいませんでした。

彼らが成長した80年代、90年代、中国国内では気功が流行りました。気功という言葉を誰もが知るようになりました。気功が体の健康を維持し、超能力すらも開発できると、中国科学技術部、国防科学技術工業委員会、国家安全部もこぞって気功と人体の特殊能力について研究を行いました。しかし、気功はどこから来たのか、その最終目的は何なのかということは、誰も知りませんでした。1993年12月、虞超は気功愛好家の母親に連れられて、ある健康博覧会に参加しました。この博覧会がその後の自分の人生を変えてしまうことを、この時彼はまだ知りませんでした。

http://www.ntdtv.com/xtr/gb/2015/07/23/a1212042.html(中国語)

(翻訳/小松)

 

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